修士2年の春、ブラック研究室は牢獄から楽園になった。

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僕は、『ブラック研究室』の大学院生だった。

 

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大学のプライド?

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教授も、同級生、先輩後輩もみんな優秀。
僕は、いわゆる『旧帝大』でバイオテクノロジーの研究室に所属していた。 

教授陣の大学に対するプライドはハンパない。

 

『お前ら、◯◯大やろ?こんなレベルの研究じゃ恥ずかしいぞ。』

『なんで◯◯大の学生が、就活しんどいんや。書類出せば受かるやろ。』

『俺はお前らのこと、◯◯大生とは認めてへんからな。』

 

大学に誇りを持ち、高いプライドを持つことが正義だった。

それは、

 

『君たちも◯◯大に誇りを持って、人生を歩んでいくんだゾ♪』

 

という生ぬるいエールではない。

 

『お前らが、能力、研究成果、就職実績、卒業後の立場において、他の大学に遅れを取るようなら、この大学の歴史と俺らが許さねえからな?』

 

という、脅しである。

僕ら大学院生は、こんな教授の下で、毎日極上のdisをくらいながら、労基法もビックリの拘束時間で研究していた。
そりゃそうだ。働いてないんだから労基法なんて関係ないんだ。

 

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ブラック研究室の1日 

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学生たちは朝10時前には研究室に集まる。
早いと20時頃、遅ければ翌日の昼過ぎまで実験をして、一旦下宿に戻る。
なお、僕は48時間不眠が自己最高である。

『下宿に戻る』というのは、生活の拠点が研究室だからだ。 

アパートとは、シャワーと仮眠のためだけのスペースである。

なお、研究が立て込むと、研究室の床で睡眠を取ることも多い。
教養の寝袋があったが、僕は潔癖症なので自分の寝袋を持っていた。

普通、大学の研究室は『コアタイム』がある。
大学院生は授業も少なく、論文さえ出せば卒業できる。研究結果さえあれば、学校に来なくても卒業は可能だ。

そういう学生をしっかりと監禁するため、”10時〜15時は絶対研究室にいましょうね”という時間が設けられる。これがコアタイムだ。

 

しかし、僕らの研究室には、その『コアタイム』がなかった。

 

『結果さえ出せば、好きにしていいぞー!^^』

 

という自由な方針だった。
もちろん、そんな教授の基準など満たせるわけもなく、死に物狂いで実験していた。

なお、実験以外にも、

  • 研究打ち合わせ(英語で資料作成):月に2回
  • 参考論文の紹介(英語でプレゼン資料作成):2〜3ヶ月に1回
  • TOEIC受検義務(結果は全員に公開):年1回
  • 研究報告会(英語で資料作成、英語で口頭発表):年に2回

というレクリエーションプランが組まれている。

留学生も多く、英語は必須だった。

資料作成も膨大で、学生のPCスキルもどんどん上がっていた。

 

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エリートの罵倒

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『…お前、今月何か実験してたん?遊びやろ?これ』

 

『今のまま卒業できると思ってるん?』

 

『お前、その頭で研究職とか目指してないやんな?』

 

このあたりのセリフで『(うっ…!)』って思うようなら、大学院は目指すべきではないかもしれない。

例えば今、上司に、

 

『てめぇクソ野郎!なにやってんだ!』

 

 と頭ごなしに罵倒されたとしても、

 

『はい!申し訳ありません!(お前wwがwwクソwww)』

 

と軽く受け流せる。

 

ただ、大学教授の disは一味違う。
日本のトップクラスと言われる大学で、トップを走り、教授職を手に入れた人間たちだ。

教授が学生を罵倒する時は、

 

『お前のアホみたいな理論だと、ゴミのようなクズ展開しか期待できんやん?そんなカスみたいな頭の回転だとダメやろ?だからお前はクソ!』

 

というニュアンスで、超理論的ディスが展開される。

常に勉強でトップを走ってきた僕らは、はるか上の存在に完全に言い負かされ、ついでに罵倒される。

僕らは、心で泣くことしか出来なかった。

 

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就職活動とは

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当時は、修士1年の12月に就活が解禁されていた。
この頃、普通の大学院生は研究室にほぼ来なくなり、内定をゲットした人たちから順次研究を再開する。

それでも僕らは研究していた。

 

『就活は好きにしていいが、研究報告はこれまで通りやからな?』

 

という教育方針の下、実験結果を出しつつ就活をする必要があった。
僕は、1ヶ月で”2週間は就活に専念し、2週間で死ぬほど実験する”というスタイルを選んだ。 

ただでさえ追い込んでいた研究の密度は2倍になった。

面接を受けられたのは4社だけだったが、結局、最初に内定が決まった大手メーカーの研究職を選ぶことにした。
これ以上の就活は無理だと思った。 

 

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牢獄から楽園へ

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修士2年の5月…教授は国の研究プロジェクトに参入して多忙になり、学生の世話は准教授が担当していた。
僕は、その優しい准教授と打ち合わせをしていた。彼のあだ名はオアシスだった。

すると…

 

『みるおかもやけど、M2*1は全員そろそろ論文*2書けるんちゃうか?』

 

『え…てことは、卒業は?』

 

『いや…余裕やろ。』

 

 

 

 

神が降臨した。 

 

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僕らは最強だった 

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研究室という監獄に閉じ込められていたせいか、僕らは周りが全く見えていなかった。

  • 留学生にも実験を教えられる英語能力
  • 実験の邪魔!と、一瞬で作り上げるプレゼン資料
  • 追い込んで積み上げた実験結果
  • 週2〜3の徹夜じゃヘコたれないタフネス
  • 教授の罵倒をものともしないメンタル

僕らは、この大学の精鋭だった。

 

というより、精鋭しかここまで残っていなかった。

 

ついてこれない学生は、学部卒で就職するか、鬱になり学校に来なくなっていた。

 

 

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リア充は一足遅れてやってくる

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『僕らは最強だ』と気づいてから、僕らは遊びまくった。

 

毎日のようにカラオケやボーリング、ダーツに行った。
ROUND 1の会員カードがゴールドになるのに半年もかからなかった。
バーベキューだってした。
オシャレな服も買った。
海だって行った。僕らの見た目はキモータ( ) かもしれないけど、化学系の研究室には女の子も結構いるんだ。 

 

それでも、研究は続けた。 
一度きっかけとなるデータが取れると、どんどん結果を積み重ねられるのがサイエンスだ。
正直、研究もウハウハだった。

 

なにより、

『2、3日遊んでも、3日間くらい寝ないで実験すれば取り返せるよね。』

くらいのタフネスがあった。

 

教授の『コアタイムなし』の制度がココで効いていた。
多忙な教授は、学生の相手をする暇もなく…。 

たまに、『(ボク頑張ってますよぉ!)』とピペットを片手にアピールしておけば余裕だった。 

 

ある日、スポッチャで平日夜から朝までフリータイムなんてバカな真似をしていた時…
午前2時を回った頃、同期の1人がベンチで何かを読んでいた。

 

『何やってるん?』

『明日(今日)のゼミ発表、俺の番やから論文読んでるー』

『マジか!じゃあ僕らフットサルしとるから後で来てやー!』 

 

誰も責めたりはしない。

彼はスポッチャ徹夜明けの午後、英語の論文3報について、概要と自分の考察をプレゼンすることになっていた。

 

『つーか、プレゼン資料(パワーポイント約30枚)できてるん?』 

 

『そんなん、午前中で出来るやろw』

 

 

 

僕らは、優秀だった。 

 

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エピローグ

遊びに研究に夢中だった頃を、今でもたまに思い出す。
あぁ、あの頃に戻りたい…と思うこともある。 
だが、社会人になった今でも、失敗した実験や試作のデータを見ると、教授に追い込まれていた時を思い出し、吐きそうになることもある。

もしかしたら、人生で一番自由だった時間かもしれない…

とにかく、最高の思い出だ。

そして結果的に、僕らをここまで育ててくれた教授に、今ではものすごく感謝…

 

 

するわけねぇけどな!!!

 

*1:修士2年生のこと

*2:『修士論文』ではなく、英語の専門雑誌に投稿する『学術論文』のこと

コメント

  1. yas より:

    今、私も大学院生ですが、先が見えなくて辛いです!筆者さんのように頑張りたいです!しかし、理系の研究室が全体的にブラックになりがちなのは問題だと思います!後輩のためにも、何とかしないと、、大学の業績をIF高い論文のみで考えてる教授が多いからでしょうか?